荒巻 慶士

UPDATE
2019.11.23

その他

覆面禁止の違憲判断に思うこと

 中国本土への被疑者の引渡しを可能とする逃亡犯条例改正案を発端としてデモ隊の抗議活動が続く香港で、日本であれば高等裁判所に当たる高等法院が、デモ隊の覆面を禁じる条例について、香港基本法に違反するとの判断をした。香港人の基本的権利の制限に関し、捜査上合理的に必要な範囲を超えているとの理由だ。香港基本法は日本の憲法に当たり、覆面規制について憲法違反と認定したことになる。警察はこれを受けて、この条例の執行を停止したという。

 このような報道に触れて、香港は中国に属することにはなったが、一国二制度はまだ維持されているのだとはっきり認識した。

 

 というのは、今回の事態は、三権分立の原則の下、裁判所が政府や立法の誤りを正したのであり、中国における共産党による一党独裁制とは相入れないものだからだ。実際に、報道によれば、中国の中国全国人民代表大会(全人代)は、香港法が香港基本法に準拠しているかどうかは全人代のみが判断・決定できる、他の当局にはその権限がないとコメントした。

 

 裁判所は、選挙の結果を元に構成される国会や政府と異なり、民主政の基礎を持たない。それでも、多数者が常に正しい判断をするとは限らないという前提の下で、国会が制定し、行政府が執行する法律の憲法適合性を審査し、その効力を決定する。これが違憲立法審査権である。

 このような「法の支配」は、国民一人一人の人生と生活を守るための知恵である。そして、言うまでもなく、合憲性は、憲法の保障する権利に基づいて判断されるから、違憲審査権のような権利を実現する手段だけではなく、権利自体の中身も重要だ。

 

 このように憲法は、下位の法律と決定的に異なる性質を持つのであり、政府がその都合の良いように改変する動きには厳しく警戒する必要がある。憲法上の原理・原則を弱めることは、国家の基本を揺るがすことになりかねない。

荒巻 慶士

UPDATE
2019.09.30

その他

懐かしくて新しい出会い

 高校生のころ、斜に構えていたから、文化祭とか体育祭とか〝青春〟めいたものが嫌だった。その後、いろいろなことがあり、大抵のことは受け入れるようになり、視野も広がって、何事にも興味を持てるようになった。さまざまな人と出会う弁護士という仕事、その前に就いていた新聞記者の仕事も、こうした心境の変化を与えたと思う。

 そういうわけで、この夏開かれた出身高校の同窓会に、初めて出かけた。といっても、これまでそのような会が行われていることも知らず、今回は幹事のメンバーが同窓会名簿を使って、広く呼びかけてくれたということだ。

 

 当時バンドを一緒に組んでいて、行くのを約束し、会うのを楽しみにしていた仲間、思いがけず再会できたクラスの友だち…。長い人では、まさに卒業以来だから、30年以上会っていないことになる。

 その年月を埋めるには、あまりにも短い時間ではあったが、会ってみれば呼び捨てで、忘れかけた記憶をみなでつなぎ合わせては笑い、会が終わるころには、すっかり高校生に戻った気分だった。

 

 不思議だったのは、級友たちは、街で会ったとしたらわからないだろうのに、顔を合わせて話してみれば、話し方、物腰、当時のままで、そのまま歳月を経た風貌なのだ。「○○か、まったく記憶にないけだ、身体が覚えてるよ」、と声を上げた友人がいた。

 まさにそういう感じ。そういえば、こう話した友人は、昔から、言うことに感覚の鋭さがあったっけ。無垢な心で、見、聞き、感じていたあのころがよみがえる。お前も結局、変わらないと言われた。

 

 友だち、そして自分にも、懐かしくも、新しい出会いだった。

荒巻 慶士

UPDATE
2019.07.21

最近の法律関係情報

許される懲戒とは

 民法822条は、親権者は、監護・教育に必要な範囲内で子を懲戒することができる、と定めている。こういう条文があることをご存知なかった方もいると思うが、今、この規定の改正が、削除を含めて、国会や法務省で検討されている。虐待に関する痛ましい事件報道に接するが、この懲戒権が虐待の口実にされているという。

 

 虐待に当たるような行為が、親権者による懲戒として正当化されるはずがないと思いつつ、民法の注釈書として古くから著名な注釈民法(新版)を紐解くと、「しかる・なぐる・ひねる・しばる・押入に入れる・蔵に入れる・禁食せしめるなど適宜の手段を用いてよい」と記載されているので、少し驚く。しかし、この後は、「目的を達するについて必要かつ相当な範囲を超えてはならない…必要かつ相当であっても、懲戒の方法・程度はその社会、その時代の健全な社会常識による制約を逸脱するものであってはならない」と、慎重に続けられている。懲戒権の内容も、時代が移り替わるとともに、解釈の変更があり得るということだ。

 この6月19日に、国会では、児童虐待防止法の改正法が成立し、その14条には、体罰が、監護・教育に必要な範囲を超えるものであることが明記され、懲戒として許されないことが明確になった。

 

 ところで、最近、自宅の近くで、「あんたは同じことを何度言われたらわかるの」と、母親が子どもに大きな声で問いかけるのを見た。「ねえ。聞いているの。ねえ」と、両肩をつかんでゆすり、なじるようでもある。これは、親の子に対する指導としてセーフか。無理はない、気持ちはよくわかる、そもそも懲戒(罰)ではないしね、と思う。最後に、「何度言われてもわからないあんたは、馬鹿なの」と言っていたら、どうだろう。

 家族法の世界から目を転じて、労働法の世界でも、懲戒というものがある。会社の社員に対する懲戒権を明示的に定めた法律はないが、一般的には、社内秩序を守るために懲戒はなし得るものとされている。しかし、肉体的に痛みを与える罰は論外ということになる。それでは、新人の肩をつかんで、上司が、「お前はいつまで同じミスをしているんだ。何回言ったらわかるんだ」と言ったらどうだろう。一定の手続の下で処分する必要があるという点は横に置いて、訓戒といった種類の懲戒もある。最後に「アホか」と言ったら? このようなやり方では、パワハラの誹りを受けて、逆に懲戒されかねないというところだろうか。

 

 企業内でも、かつては、鉄拳制裁というものがあった。しかし、今は、「愛のムチ」は、会社でも、家庭でも、許されない時代になった。さらに、表現や言葉遣いまでこまかく問題になっていくと、ちょっと窮屈にはなってくる。

 

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